History of Yasaka Shrine
創祀
Enshrinement
社伝としては以下の2つの説が伝わります。
渡来人が神様をお祀りしたのがはじまり
斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。
お坊さんがお堂を建立したのがはじまり
貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまる。
発展のきっかけは疫病消除(えきびょうしょうじょ)の祈り
長徳元年(995)には王城鎮護の社として尊崇された二十一社(のち二十二社)に数えられました。
平安時代の様子を知る史料は限られますが、延久2年(1070)の太政官符には、「東は白河山、南は五条(松原)以北、西は鴨川、北は三条以南」で囲まれた広大な土地が境内地として定められています。
重要文化財 『太政官符(だじょうかんぷ)』 延久2年(1070)
『八坂神社文書』の中で最も古い文書。
東は白河山、南は五条以北、西は鴨川、北は三条以南で囲まれた土地を境内の四至として認めた、と書かれております。
文書に記された「感神院(かんしんいん)」とは八坂神社の当時の名称です。
『由緒略記』200円
由緒をはじめ本殿及び摂末社の御祭神や年中行事など、八坂神社の基本的なことを知れる一冊です。社頭で授与しております。
八坂神社の歴史 4つの特色
Four unique points of Yasaka Shrine's history
祇園祭と八坂神社
京都三大祭・日本三大祭として知られる祇園祭(ぎおんまつり)も国家の安寧と疫病消除(えきびょうしょうじょ)を願ってはじまった八坂神社の祭礼です。
祇園祭は貞観11年(869)国内に疫病が流行した際、洛中の禁苑であった神泉苑に神輿を送って、当時の国の数であった66本の矛を立て国家の安寧と厄災消除を願ったことに由来します。
祇園祭のはじまりを、八坂神社に残る書物『祇園本縁雑実記』は次のように伝えています。
「貞観十一(869)年、天下大疫の時、宝祚隆永、人民安全、
疫病消除鎮護の為、卜部日良麻呂、勅を奉じ、六月七日、六十六本の矛を建て、長さ二丈許、同十四日洛中男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送り、もって祭る。是祇園御霊会と号す。爾来毎歳六月七日、十四日、恒例と為す。」
「祇園本縁雑実記」(※寛文10年(1670)以降成立)
祇園本縁雑実記(原文)
平安時代疫病を引き起こすのは非業の死を遂げた人々の霊「御霊(ごりょう)」とされ、各地で御霊を慰撫(いぶ)する「御霊会(ごりょうえ)」が催されました。
祇園祭もそれに端を発する祭礼でかつては「祇園御霊会」と呼ばれました。
祭には早くから神社が奉仕する神輿渡御に附随し、貴族らから馬長童や田楽などが調進されました。これらの歴史を伝えるのが昭和41年(1966)より7月24日に行われている花傘巡行です。
そして祭の中心となるのが3基の神輿です。7月17日の夕刻、八坂神社の御祭神をお乗せして神社を出発し、1週間四条寺町の御旅所(おたびしょ)に留まられた後、24日に氏子区域を廻って八坂神社に戻られます。
祇園祭は現在7月1日~31日までの1カ月間に亘り、八坂神社及びその氏子区域において様々な神事行事が執り行われておりますが、その多くがこの神輿渡御と山鉾巡行に関連したものです。
特に山鉾巡行はユネスコの世界無形文化遺産にも登録され、豪華絢爛な山鉾が
祇園囃子を奏でながら都大路を進む姿は世界の人を魅了しています。
神仏習合※1の場でもあった八坂神社
地域の人から「祇園さん」と親しみを込めて呼ばれる八坂神社。これは八坂神社が慶応4年(明治元年(1868))まで「祇園社(ぎおんしゃ)」「祇園感神院(ぎおんかんしんいん)」と称したことに由来します。
江戸時代まで神社とお寺は今よりずっと近い存在でした。八坂神社では社僧(しゃそう)と呼ばれる僧形(そうぎょう)の人々が奉仕し、境内には薬師堂や鐘楼などもありました。
しかし、明治政府の神社とお寺をはっきりと区別する神仏分離政策を受け仏像などは近隣の寺に預けられ摂末社に至るまで仏教的な名称が改められて、今日見るような境内景観が形成されるきっかけとなりました。
- (左)『感神院 扁額※2』
- 八坂神社と改称する明治以前まで、石鳥居に掲げられていた扁額 です。
- (右)西手水舎に刻まれた「感神院」の文字
- 西楼門から入って左手にある西手水舎(にしてみずや)の石甕には「感神院」の文字が刻まれています。
比叡山延暦寺の末寺 ※3であったことも
理由は不明とされていますが、比叡山延暦寺の末寺となっていた時期もありました。
古くは興福寺、その後比叡山延暦寺の末寺(末社)であった祇園社(八坂神社)ですが、元亀2年(1571)織田信長による比叡山焼き討ちにより比叡山の支配から
離れ、独自の祇園信仰を続けることとなり明治へそして現在に至るのです。
- ※1神仏習合:日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷して融合調和すること。
- ※2扁額:神社の鳥居や社殿、寺院の本堂などに掲げられている額のこと。
- ※3末寺:本山、本寺に従属する寺。
国宝 本殿
平安時代以来の形式を受け継ぐ本殿
八坂神社の本殿は一般に「祇園造(ぎおんづくり)」とも称され、独特な形式と社殿建築としては最大の床面積を有します。これは、本来別々に建っていた「本殿」と「拝殿」をひとつの屋根で覆い、さらにその周囲に又庇(またびさし)を伸ばし、いくつもの小部屋を配した複雑な構造に由来します。
- (左)「祇園社絵図」 隆円筆(重要文化財)元徳3年(1331)
- 八坂神社の境内を描いた最古の絵図です。本殿の形が今と同じことがわかります。
また中門と回廊は今に伝わらないものの、本殿・舞殿・南大門(南楼門)が一直線に並ぶ現在と変わらない景観が見て取れます。 - (右)「祇園本殿絵図」 南北朝期
- 中央に大きく描かれている獅子・狛犬と御棚(みたな)は、本殿が見世棚造(みせだなづくり)といわれる、神様が鎮まる社殿の正面にお供え物を置く供物棚(くもつだな)を備えた形からはじまったことを伝えています。
『祇園・八坂神社の名宝』500円
平成14年、平成の大修造営事業を記念して京都国立博物館で開かれた特別展観の
図録です。HPでも紹介している絵図類等の他、現本殿の建立に併せ江戸幕府より
奉納された御神宝類の写真も多数掲載しています。社頭にて授与しております。
本殿と祇園祭
江戸幕府により再建された現本殿ですが、それ以降守ってきたのは祇園祭に奉仕する山鉾町や轅(ながえ)町の人々をはじめとする町の人々でした。
また令和2年(2020)12月23日、本殿国宝指定に併せ新たに指定された境内外の摂末社並びに境内建造物26棟には、祇園祭の際に神輿が渡御する御旅所や大政所社(おおまんどころしゃ)、又旅社(またたびしゃ)、さらには昭和初期に建てられた神輿庫といった祇園祭に欠かせない多くの建物が含まれており、本殿に留まらず八坂神社全体が祇園祭を担う人々によって維持されてきました。その歴史と文化が認められ、令和2年(2020)本殿が国宝に指定されました。
中世から現代まで、建築の歴史を感じられる八坂神社の建築
令和2年(2020)の本殿国宝指定と併せて、境内・境外合計26棟の建造物が重要文化財に指定されました。
南・西手水舎や神輿庫など建築年代の新しい建造物も、八坂神社の信仰の柱である祇園祭に欠かせない建造物として重要文化財に指定されています。
八坂神社の建築で特徴的なのはその歴史の深さ。明応6年(1497)建立の西楼門、天正19年(1591)建立の美御前社、天保8年(1837)建立の御旅所、昭和3年(1928)建立の神輿庫まで、中世~近代以降の社殿建築を見ることができ、現代に至るまで連綿と受け継がれてきた八坂神社の建築の歴史が感じられます。
国家からの崇敬
八坂神社は民間からももちろんのこと、時の権力者や天皇からもあつく信仰されてきました。
経済的基盤の確立
はじまりは元慶元年(877)平安時代に遡ります。
当時疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされたため各社に祈りを捧げるために奉幣(ほうへい)が行われたが、一向に収まりませんでした。そこでさらに占ったところ東山の小祠の祟りと判明し、勅使を発遣して祈ると疫病の流行が止みました。これが八坂神社の発展の契機となったのです。
この僅か2年後には陽成天皇(ようぜいてんのう)より堀川の地12町が神領地として寄進され、また同地の材木商人360人は神人(じにん)に補せられるなど、経済的基盤が早くも確立することとなりました。
藤原氏からの崇敬
藤原氏の崇敬もあつく、基経(もとつね)はその邸宅を寄進、感神院(八坂神社)の精舎としたと伝わっており、道長もたびたび参詣しました。藤原氏全盛時代の中心人物の崇敬によって、八坂神社の地位は次第に高まっていきました。
後三条天皇の行幸※3
長徳元年(995)には、王城鎮護の社として尊崇された二十一社のうちの一社となり(のち二十二社※4)、延久4年(1072)3月24日には後三条天皇が行幸 されました。これが当社への天皇行幸の最初であり、以後、天皇・上皇の行幸・御幸はたびたびなされることとなりました。
武家からも崇敬を集めた八坂神社
平清盛の田楽奉納・源頼朝の狛犬奉納、また足利将軍家も社領の寄進・修造を行うとともに社務執行は将軍家代々の祈祷もつとめました。豊臣秀吉は母大政所の病気
平癒を祈願し、焼失していた大塔を再建するとともに一万石を寄進されました。これにより戦国期に荒廃した八坂神社の再興が進みます。江戸時代には徳川家も当社をあつく信仰し、4代将軍家綱は現存する社殿を造営、数多くの神宝類も寄進しました。そして明治4年(1872)に官幣中社※5に列格、大正4年(1915)には官幣大社※5に昇格することとなりました。
鎌倉時代、源頼朝奉納と伝わる『狛犬・獅子 一対』。当社の本殿には『狛犬・獅子』像が三対存在し、写真の物は現存最古のもので、左が狛犬、右が獅子です。他の
二対(室町時代、江戸時代制作)は現在も本殿に安置されています。
- ※1奉幣:天皇の命により神社・山稜などに幣帛を奉献すること。
- ※2神人:古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人。
- ※3行幸:天皇が外出すること。
- ※4二十二社:国家の重大事、天変地異に奉幣を立てた神社。
伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、大神、石上、
大和、廣瀬、龍田、住吉、日吉、梅宮、吉田、廣田、祇園、北野、丹生、貴船の各社 - ※5官幣中社/官幣大社:神社の旧社格の1つ。国家のために霊験著しく、祈年祭、月次祭、新嘗祭に神祇官から幣帛(へいはく、神へ奉献する供物の
総称)の供進を受けた神社。律令制の社格に倣ってそれぞれ大中小の社格があり、官幣大社は神社の中で最も格の高い神社。
伝統文化を未来へ
To the present age
八坂神社は、北は二条通、南は松原通、西は千本通と京都の中心街を氏子区域とする神社です。
また、東大路通りに面する西楼門(明応6年(1497))は京都・祇園地域のシンボルとして四条通の東端に建っております。東山の観光アクセスの拠点となっており、日本全国また世界各国から多くの参拝者を受け入れています。
この神社を護り維持する精神は、現在も氏子組織の清々講社(せいせいこうしゃ)と全国の崇敬者からなる八坂神社崇敬会に引き継がれており、近年はその奉賛を得て順次社殿・建物の修復を行い、瑞々しい境内景観の維持に努めるとともに、氏子崇敬者と伝統文化を未来へ繋ぐ継続的な取り組みを行っています。
また、祇園祭山鉾巡行がユネスコ世界無形文化遺産に登録されたり、平成26年(2014)には後祭が49年ぶりに復興したりと祇園祭の伝統を現代へと継承する取り組みを行っております。特に令和元年(2019)は祇園祭1150年を迎え、江戸時代の神輿渡御を再現したような四条通での渡御や、文化面ではシンポジウムの開催等疫病退散が根源である祇園祭の本義を継承するため様々な方々から支援をいただき、中世から続く伝統を現代、そして未来へと
繋いでいくための活動を続けております。
略年表
Abbreviated chronology
時代 | 年号(西暦) | 略年表 |
---|---|---|
飛鳥 |
斉明天皇2年(656)
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高麗より来朝の使節伊利之が新羅国牛頭山に座した素戔嗚尊をこの地に祀り、八坂造の姓を賜る
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平安 |
貞観11年(869)
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神泉苑にて祇園御霊会が行われる(祇園祭の初見とされる)
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貞観18年(876)
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南都の僧・円如がお堂を建立し、薬師如来を安置する
天神が祇園林に垂迹する |
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元慶元年(877)
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疫病が流行し、朝廷より奉幣を受ける
藤原基経邸宅を寄進し社壇(神様を祀る場)とする |
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天禄元年(970)
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祇園御霊会が「二十二社註式」に記述され官祭となる
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天延2年(974)
|
比叡山延暦寺の別院となる
円融天皇の勅命により大政所御旅所が定められ祇園御霊会が勅祭となる |
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長徳元年(995)
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二十一社の一つに定められる
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延久2年(1070)
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太政官符により祇園社の四至が定められる
(この時境内地として認められたのは、東は白河山、南は五条 今の松原以北、西は鴨川の堤、北は三条以南という広大な土地だった) |
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延久4年(1072)
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後三条天皇行幸 (当社への最初の天皇行幸)
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室町 |
応仁元年(1467)
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応仁の乱により京の町が灰燼と化し、祇園祭が33年間中止となる
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戦国 |
元亀2年(1571)
|
織田信長による、比叡山焼討が行われる
|
江戸 |
正保3年(1646)
|
5月江戸幕府により本殿修理が行われるも、11月火災により焼失
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承応3年(1654)
|
4代将軍家綱の命により、現本殿が建立される
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慶応4年(1868)
(明治元年) |
社名を祇園感神院(祇園社)より八坂神社に改称する
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明治 |
明治4年(1871)
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官幣中社に列せられる
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明治8年(1875)
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氏子組織、清々講社設立
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明治44年(1911)
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4月17日 本殿が重要文化財に指定される
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大正 |
大正4年(1915)
|
官幣大社に昇格する
|
平成 |
平成14年(2002)
|
平成の大修造営
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平成15年(2003)
|
八坂神社崇敬会発足
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令和 |
令和元年(2019)
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祇園祭が創始1150年を迎える
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令和2年(2020)
|
12月23日 本殿が国宝に指定される
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