令和2年(2020)12月
八坂神社本殿は
国宝に指定されました
その他、境内・境外合わせて26棟が重要文化財に新たに追加され、既指定の3棟と合わせると国宝1棟、重要文化財29棟もの建造物が境内に建ち並びます。
様々な側面から歴史的価値が高いとされる、八坂神社の建築様式について解説します。
その他、境内・境外合わせて26棟が重要文化財に新たに追加され、既指定の3棟と合わせると国宝1棟、重要文化財29棟もの建造物が境内に建ち並びます。
様々な側面から歴史的価値が高いとされる、八坂神社の建築様式について解説します。
平安時代の建築様式を伝える
八坂神社独自の建造物
八坂神社の本殿は神様の鎮まる内々陣を中心に建物の中を一周できる、神社本殿としては特殊な造りになっています。その内部はいくつもの「間」に分かれており、神事を行う場所、拝殿にあたる場所など、それぞれに異なる意味や役割があります。
建面積 軒面積 屋根面積 高さ |
662.38㎡ 1,049.50㎡ 1,320.00㎡ 15.53m |
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現在の形の起源は平安時代に遡ります。
本殿の建築についての初見は『二十二社註式』所引の承平5年(935)の太政官符で、
とあり、もともとは神殿(本殿)と礼堂(拝殿)が別々だったことが分かります。
承久2年(1220)、本殿は火災で失われてしまいます。九條道家の日記に記されているその被害実検文を見ますと、
とあり、この記述内容は、現在の本殿の特徴と一致します。この時失われた本殿は久安4年(1148)に再建されたものであることから、少なくとも久安4年には現在の本殿に近い形になっていたと考えられています。
さらに柱は丸柱・角柱を描き分けるだけでなく、朱色と橙色の塗り分けや、半面のみの彩色を正確に描写しており、往時の本殿の有り様を伝えている貴重な史料といえます。ちなみに柱の半面のみの彩色は現在本殿でも行われているところであり、祇園社の本殿が旧態を遵守して再建を繰り返してきたことがうかがえます。
別々の建物であった本殿と拝殿を1つの大屋根で覆い、その周囲を囲むようにいくつもの部屋がある。
これが八坂神社本殿の特徴です。
また、内々陣前と内陣前の2箇所に御供物を供えるための御棚があります。かつては外陣と石の間の境にも御棚がありました。この3箇所の御棚は他に例を見ない大きな特徴と言えます。
寺院建築の事例
神社建築の事例
八坂神社本殿
本殿の大屋根(檜皮葺)の下に北・東・西面の三方へ伸びる庇があります。
これは八坂神社の社殿にのみ見られる特殊な様式です。ちなみにその庇の下にはいくつかの部屋が設けられています。
また、このような独特の様式は、境内の摂末社にも見られます。
江戸幕府の直轄事業として修理された本殿は正保3年(1646)5月28日に正遷宮(完成した社殿に御祭神をお遷しする儀式)が行われましたが、同年11月18日に焼失してしまいました。
承応3年(1654)江戸幕府によって再建されましたが、これはのちに寺社優遇政策を取らなくなる幕府が社寺に対して行った最後の直轄事業となりました。
その後の貞享・明和・文政期にも修理はなされていますが、これらは祇園祭の山鉾を守る山町・鉾町や神輿の奉仕をする轅町(ながえちょう)の人々が資金集めに尽力し、氏子からの寄進によって行われたことが史料から分かっています。
江戸幕府最後の直轄事業として建てられ、氏子の力で守り受け継いできた宝。それこそが八坂神社の本殿なのです。
ちなみに、承応の造営では、様々な神宝類も江戸幕府より奉納されました。
八坂神社の本殿は池の上に建っており、その池は青龍の住む龍穴だと言われています。其の二の図面にある内々陣下がその位置になります。ですがその池は現在、亀腹状に盛り上がった漆喰で固められており、見ることはできません。
「祇園の宝殿(本殿)の中には、龍穴ありとなん云。
延久の焼亡の時(1070)梨本の座王そのふかさをはからんとせられければ、
五十丈(約151.5メートル)にをよびて、なをそこなし、とぞ。」
『続古事談』
中世以来の伝統を継承する
重要文化財指定の社殿群
崇敬の心を形にした建物の数々